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「お釈迦さま」のこと

1. はじめに

これは私が読んだ本 (末尾に示す)から、釈迦の生涯を年代記的に抜書きしたものである。尊称については、山折氏の本では出家までをシッダールタ、出家後悟りを開くまでをシャ カ、悟りを開いた後をブッダと区別している。或いはまた我々が日常的に使っている尊称は沢山あるが、ここではシッダルータとそれ以外を釈迦とした。

2. 釈迦誕生の頃の社会的な背景

現在、インドの人達の 83%はヒンドゥー教を信じている。キリストもマホメットもまだ生まれていない釈迦の誕生した紀元前5世紀当時もヒンドゥー教がインドでは最大勢力を持っ ていた。紀元前1000年頃侵入してきたアーリア民族がもたらしたカースト制度の原型となったバラモンを頂点とするヴェルナ制度(四姓制度)の世界だっ た。紀元前6世紀頃からインド北部には王制国家や部族共和制国家が乱立し覇権を争っていた。このような中で釈迦族はヒマラヤ山麓の常に侵略の危機に脅かさ れている 小国だった。釈迦は、第2の姓の王族階級のクシャトリアの子として生まれ育った。

3. 出生/結婚

インド北部の小国釈迦 族の都(カピラ城)のシュッドーダナ王と隣国コーリヤ族から嫁ぎ妃となったマーヤー夫人との間に、その長子としてルンビニー園で紀元前 463年(一説)に釈迦は生まれた。マーヤー夫人は、ある夜天から六牙の白象が降りてきて夫人の周りを三回右に巡ると右脇から胎内に入ったという夢をみ た。王が賢者に夢解きをさせると「王妃は受胎され、男の子で在家の生活を送るなら全世界を統治する王の王たる「転輪聖王」となり、もし出家するなら悟りを 開きブッダとなるであろう」と予言した。王子は生まれると七歩歩き右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と言った。王子はシッダールタ(悉達 多)と名づけられ生後七日目に母親のマーヤー夫人は他界した。その後は王が再婚したマーヤー夫人の妹に宮廷でなに不自由なく育てられた。16歳(一説では 19歳)でヤソーダラと結婚、男子を儲ける。ラーフラ(悪魔の意)と名づけられた。後に成長しラゴラ(羅?羅)となり釈迦の従弟のアーナンダ(阿難 (陀))と同様に釈迦十大弟子の一人となった。

4. 出家

自身の後継者として立 派に育ってほしいと王は願い、大いなる愛情を注がれていた王子は王宮に篭って安穏と快楽の生活を続け世俗から遠ざけられていた。そんなある日、王子は城外 へ散策に出かけた。カピラ城の東門を出ると痩せ衰えた老人が杖にしがみついて歩いているのを見て、生きることの苦悩を痛感した。また、ある日、南の城門を 出ると重病人と出会い、死にかかって苦しむ男を見て心がみだれ、そして後日、西の門を出ると死者に出会い、嘆き悲しむ人々を見て命のはかなさを知った。し かしある日、北門を出た王子は出家修行僧に出会い、出家の功徳を聞かされ、世俗の欲望を捨て去り、穢れや苦しみから離れた修行者の生き方に心の平安を見出 した。これを「四門出遊」と言い王子が老、病、死の現実に世の無常と無情を感じ、出家者の生き方に共感して新天地に出立する出家の心理的な動機となった。 出家は29歳で南へ向った。

5. 苦行 、

釈迦の回想として伝え られるところによると、その生活は、衣服は身体につけず裸で過ごし、特別な施しは受けず、酒は飲まず、魚や肉は食せず、心の働きを一点に集中させる精神統 一の行や、呼吸をコントロールして停止させる止息禅の行、一定期間立ち続ける不座の行、刺のある床に横たわる行、つねにうずくまる蹲踞の行、などを実践し た。人里離れた森林に住み人を見ず、見られないようにして孤独行を修めた。また、一日一食からはじめ、二日に一食、七日に一食、半月に一食と減食し、次第 に生米一粒、胡麻の実一粒、やがて一切の食を断つ、断食苦行を行っていた。肉体は、骸骨のように痩せ衰え、目は窪み、肌は黒色に変わり、死にいたるのでは ないかと思われるほどの究極の苦行を行っていたという。釈迦はこれで二つの極端な経験をしたわけである。一つは出家の動機の一つになったカピラ城での欲望 のおもむくまま快楽を貪る世俗の生活で、今一つは死の淵にいたる激しい苦行の実践である。これらから快楽は虚しさと極端な苦行は真実を追究する道ではない ことを知り二つの両極端な生活を捨て去ることにし六年にわたる苦行生活に終止符を打った。村娘スジャーターから乳粥の供養を受け体力を回復させ、悟りの座 へ踏み出したのである。

6. 悟り

悟りの場を求めて前正 覚山で瞑想に入ったが、ここは悟りを開くにはよい所ではないという天人の声を聞きここを去った。前正覚山を下山した釈迦は、新たな悟りの場を求めて、およ そ7キロ西南を流れる尼連禅河(ナイランジャナー河)の畔、苦行林の近くに聳える菩提樹へ向った。釈迦は河で身を浄め、菩提樹の下で幹を背に東に向かい、 吉祥草を敷いた上で瞑想禅定に入った。煩悩を消滅させて、誰もが避けて通れない人生苦の真理を解明した釈迦は、心に襲いかかる様々な誘惑に打ち勝ち悟りを 開いた。この地がブッダガヤで釈迦35歳であった。仏教の始まり。

7. 布教・伝道

象頭山や王侯や富豪か ら寄進を受けた竹林精舎や祇園精舎などを拠点に布教活動を精力的に進め、バラモンからの帰依者も多く得た。王侯や多くの民衆を前に「法華経」「無量寿経」 「般若経」などを説いた、と大乗経典は伝えている。その行脚した距離は優に1000キロを超えると言われている。

8. 入寂

精力的に布教活動を続 けてきた釈尊も既に80歳、肉体的な衰えは隠しようもなかったであろう。釈迦といえども一個の人間として家族への思い、釈迦族への思い、故郷への思いが高 まってきたのではなかろうか。アーナンダを伴い教えを説きながら、北へ向った。途中鍛冶工の子チュンダの食事の招待を受け、その料理で血便をともなう激し い腹痛に襲われた。死にいたる激しい苦痛を耐えながら更に歩みを続けた。クシーナガルに辿り着いた釈迦は「われは疲れた、横になりたい」とアーナンダに告 げ、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に北枕で床を用意させ、右脇を下に、足の上に足を重ね横臥した。伝説によると、その時沙羅双樹はときならぬ花を咲 かせ、釈迦を供養するためにその花が釈迦の体に降りかかり、天の曼荼羅華も虚空から降り注いだ、と伝えられている。釈迦の最後(涅槃)を看取ったのはアー ナンダ(阿難)であった。釈迦の最後の言葉は「法灯明、自灯明」(自分の死後は法(ダルマ)を拠りどころとし、自らを拠りどころとせよ)。これらのことは アーナンダの残した「大般涅槃経」にある。

(2008・5・2  Base 馬場 健)
引 用文献
丸山 勇著「カラー版 ブッダの旅」岩波新書1079  2007年4月20日版 (ISBN978-4-00-431072-3)山折哲雄著「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書0351C 2006年12月6日版 (ISBN4-08-720351-4)